『種まきびとのものつくり』(早川ユミ著)

あるとき、無印良品のお店の一角にある、ブックコーナーで見つけた本。『種まきびとのものつくり』(早川ユミ著)

手作り感のある外函と本の表紙。

ページをめくってみると、自然・ものづくり・体のケアの内容が、目次も含めてすべて手書きで書いてあって。

自然と調和した自給自足の暮らしの写真が載っています。

書いてある内容は…

畑の種まき、裁縫のちくちく作業、手縫い服やふんどしの作り方(かなりアバウト)、味噌や梅などの季節仕事、家畜のこと、身体のケア(冷え取り、瞑想、老子法など)、手作り・物づくりの重要性、大量消費社会に対する危惧など。

見た目が素朴な外観の本だし。持っているだけでほっとするので、売りに出さずに本棚に入っている本です。

書いてあることは上記のとおり「日々の手仕事」。


夏の土用に入って、本棚の整理をしようかなと思ったけど。捨てる本が見つからず、断念。

そのついでに手に取ったこの本を、久しぶりに外函から出して開いて見たのです。

夏の土用期間の直前に、突然のめまいと吐き気に見舞われて(良性発作性頭位めまい症)、土用に入ってからも病み上がりから抜け切れない中。

まだ気持ち悪さが残るなか、家の外の自然菜園を眺めると、青シソをはじめとして、植物の緑がものすごい旺盛で……飲み込まれそうなほど旺盛で。

家の前にこさえた自然菜園。夏の土用入りした畑の様子。

困ったものだな。来年はもう少し青シソの数を減らしたり、菜園を整えたりする必要があるなと思っていたところ。

この本を開いて見たら、種まきすることが、人間として生きる上でとても大切なことだと書いてありました。

初心にもどったかんじ。やはり自然に触れあい生活することが、人間として大切であるということ。

今年も、茶色く枯れた植物から種を採り、秋野菜の種を蒔いて…と、一人で続けている中で、「私はやりすぎなの?」とかいう思いが頭の中をよぎったりもしましたが(なにせ周りは一般の住宅に囲まれている環境)。

早川ユミさんの書いてある内容を読んで、勇気づけられました。

とりあえず、人間としての生き方に沿って日常生活を生きようと試みている、(種まき・種採りするなどの)この小さな取り組みは、あながち間違っているわけでは、やはりないらしい、と。

私の持っている本は、不思議なことに、現在の世界の状況が書かれているものが多いです。

発行されたのは10年前など昔なのに、書いてあることが「今」問題となっていること。

『種まきびとのものつくり』では、「大量消費社会」となってしまっている私たちの生活への危惧がつづられていました。以下、あとがきの文章を抜粋させていただきます。

『種まきびとのものつくり』(早川ユミ著)より抜粋

現代の社会では、暮らしは、消費することです。消費するだけで、なにか産みだしたり、つくったり、表現したりは、しない暮らし。これでは、なにか、元気がなくなり、幸せな感じがしないってことに、みんな、うすうす気がついているのではないでしょうか?文明が発展して、便利になってきたのだけれど、便利になればなるほど、ひとは、しあわせじゃないような気がします。ひとはたましいや気というものが生きるちからのもとになっているのに、自然とはなれて暮らすうちに、生命エネルギーそのものが失われているのではないでしょうか。なんだか、元気がでないとか、やる気がでない、こころやからだは、なにか自然をもとめているのではないのでしょうか。今は、国も、世の中も社会全体が経済中心の時代。物質社会、お金中心な社会では、ひとの気もちやこころ、たましいや、気、しあわせ感がだいじにされていないような気がします。人間のこころや精神という能力は、ちからを発揮することなく失われてゆくばかり……じゃあ、どんな暮らしかたが、人間らしいのだろう。……文明の大量生産、大量消費からすこしだけぬけだして、……ちょっとずつのちいさなものつくり、たべものつくり、ちいさな自給自足で暮らしを変えると、うんとからだもこころも気もちいいのです。生きるってことが、働くってことがすこしお金の価値からぬけでたような。お金じゃないちからを付けるみたいなことでしょうか。

「現代の社会では、暮らしは、消費することです。」

これって、かなり衝撃的な、ショッキングな文章。

夏の土用期間。体を休ませながら、静かな空間にいながら。

消費に偏り過ぎない暮らし、手仕事、種まきなど創ることのお手伝いをすることなど。

自分の暮らしの中にある、グローバル社会によって馴染まされた、極に偏ってしまった習慣を少しずつ手放して。

そこにできた余白に、素朴な暮らしを取り入れてみたいなと思いました。

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