2023年8月末まで。柏駅から徒歩1分の場所で、小さな展示コーナーが設けられていました。
絵葉書より少し大きいサイズの紙に描かれた、シベリア抑留の記憶を描いた絵画展です。
作者は、水彩画家・イラストレーターの木内信夫さん。
木内さんは2021年にこの世を去られましたが、彼の作品は「ユネスコ世界記憶遺産」の登録を受けました。

シベリア抑留の記憶
シベリア抑留者はたくさんいたと思いますが、抑留者本人の記録が、あまり残っていないような印象があります。
それというのも、私の祖父もシベリア抑留者だったからです。
祖父はシベリア抑留の話を、孫の私に向けて直接は話してくれませんでした。
母には小出しに話していたようで、パズルのピースのように、1コマ1コマの出来事を耳にすることはありました。
祖父は、「あんなことは、もう思い出したくもない」と言っていたこともあり、過酷な生活を経験した当人から、シベリア抑留の思い出を聞き出す気は起きませんでした。
祖父は2020年に98歳(数え99歳。お墓には100歳と刻んでもらいました)でこの世を去り、祖父のシベリア抑留の生の声は、この世に発せられることはなくなりました。
シベリア抑留についてネットで調べたところ、平和記念展示資料館というものが東京の都庁前駅の近くにあるそうで。そこでシベリア抑留者の遺品などが展示されているようです。
平和記念展示資料館で集めた抑留者たちの長々とした記録も、ネットで読むことができました。
あとは、シベリア抑留者たちが引揚げてきた京都府の舞鶴には、舞鶴引揚記念館があり、そこでもシベリア抑留の展示があるそうです。
ところで引揚は北海道ではなく舞鶴だったのですね。
京都に行った際は、ぜひ立ち寄ってみたいと思いました。
祖父の経験したシベリア抑留
祖父は兵士として、満州などいくつかの地域に送られた後、シベリアに4年間抑留されました。
祖父は、シベリアがどれだけ寒く過酷な場所なのかということを、ユーモアを交えて、1コマ1コマ、小出しに喋ってくれました。
たとえば、
おしっこは一瞬で凍りついて痛い。味噌汁は凍らせて持って行った、など。
また、海に生息する大きな哺乳類を捕って食べたそうですが。一体それは何だったのか。タラバガニも、たくさん食べたので、もう食べたくないと言っていた記憶があります。
一体どういう経路でタラバガニを食べていたのか。聞いただけでは意味不明ですが、
平和記念展示資料館の、ある抑留者の記録を読んだところ、「ポポフ島」という島にある缶詰工場を手伝う仕事で、タラバガニの缶詰を作っていて、タラバガニの足は破棄されるので、それを食べていたという内容が書いてありました。
私の祖父も、そのような場所にいたことがあるのかもしれません。
トドのような哺乳類を捕って食べたのも、その時期だったのでしょうか。
極寒の中、食べ物もろくに与えられず、鉄道や建物建築の強制労働をさせられたのは、わりと早い段階のことで。その後は祖国への引揚がはじまったり、農作業や缶詰工場などを手伝う仕事など、様々な仕事をしていたということがわかりました。
シベリアにも春や夏がやってくるので、寒さが和らいだ季節になると遊ぶこともあったようです。
二宮和樹さん主演の『ラーゲリより愛を込めて』では、日本人抑留者が野球をするシーンが出てくるようです。
私の祖父は冬にソリ遊びをしていて馬小屋に激突し、歯を折ってしまったそうで。それ以来、ソリはやらなくなったと話していました。
たくさんの死者が出た
シベリア抑留といえば極寒の中での強制労働で、日本人抑留者の5万5000人程度が死亡したと記録されています。(ウィキペディア参照)
死亡の原因は、マイナス40度にもなる寒さの中で耐えがたい生活を強いられたため。
満州やその他の地で、日本敗戦、戦争終了の知らせを受けた日本兵たちは、お土産の袴やもろもろを渡され、日本への引揚船に乗船します。
発船した船は、なんだか日本がある方角に進んでいないようだと、兵士たちはいぶかしみました。
シベリアへ抑留された兵士たちは、旧日本軍の上層部、日本政府の身の安全を確保するための、いけにえのようなものでした(解釈が間違っていたらすみません)。
旧日本軍の上層部は、戦争が終わると足早に日本に帰国。残された兵士たちをソ連に売ったのです。
昔の日本の思想は、弱い者の命を平気で犠牲にすることで、国家を守り自身を守り体裁を守り、他に勝利する意識が根強かったと感じます。
シベリア抑留では男性が被害に遭いましたが、その裏では満州などで、開拓団員の団長からの指示で、ソ連兵に強姦されることを余儀なくされた少女たちの記録もあります。(『ソ連兵へ差し出された娘たち』平井美帆著(集英社)という本があるそうです。)
また戦中、中国の満州に「731部隊」という日本の研究機関があったことを知りました。
そこでは捕虜になった中国人、ソ連人、ソ連兵などを実験台にして、残虐な人体実験を行っていた記録があります。
その残虐さは、ドイツのユダヤ人収容所で起きたことを上回るほどの凶悪さに満ちていると言われます。(ドイツのユダヤ人収容所に関する映画『シンドラーのリスト』など)。
アメリカの研究者たちは、日本の被爆地を実験場にして、原爆がどんなリスクを引き起こすかを、現地の被ばくした日本人や被爆地の状況を観察して、長年に渡り記録を取り続けていたそうです。
その内容をNHKのテレビで観て、なんて残酷なのだろう、これが許されるのだろうかと思いましたが。
日本人は被害者だけではなく、加害者でもありました
日本がしたことを謝らないので、中国や韓国は今も日本に対して根強い憤りをもっているのですね。
しかし被害に遭った中国人やソ連人も、加害者としてどこかや誰かに対して、同じことをしています。
「平和」が声高にされるようになってきた今。今の世代を生きている私たちは、古い時代から一歩前進した思想を持つ必要があると感じます。
祖父は運転ができたので、ロシア兵の司令部で運転手をしていたそうです。
祖父の仕事は、死体の山をトラックの荷台に乗せて、真っ暗い山の中を走ることでした。物言わぬ死体の山が、自分の背後にある状況の中、背筋がぞーぞーしていたそうです。
調べてみると、労働は日中だけではなく夜も行われていたようです。
その頃のソ連はとても貧しく、国民でも食べ物が不足している時期。与えられる食べ物も、労働量よりはるかに少ないものでした。
木内信夫さんの展示内容でも、パンを当分することにピリピリする抑留者たちのシーンが描かれています。
平和記念展示資料館の記録の中には、「虫、カエル、ヘビ、ネズミなど、食べられるものは何でも食べた」という内容が多く書かれています。
私の祖父も、当たり前のごとく、それらを食べて生き延びました。
芋虫のような「ワーム」は、ミルクのような味がしたなど、経験した者しか味わえない思い出です。
木か土かをほじくると出てきたとかなんとか。そんな話をしてくれました。
今でも世界には、虫やワーム、ネズミ、カエル、ヘビを当たり前に食べる民族がいます。そう考えると私たち日本人は、「生き物」として、かなり退化してしまったように思えます。少なくとも私はそう。
今、サバイバルをしなければならなくなったら。シベリア抑留経験者くらいの覚悟が身についてないと、いろいろと厳しい。昔の人たちの生活から学ぶことが、どんどん増えてきていると感じます。
抑留者のすべての人が、なんでも食べていたわけではなく、えり好みする人もいたようです。
虫、カエル、ヘビ、ネズミなどを食べられなかった人が死んだと、祖父は語りました。
死亡する原因は栄養失調だけでなく、寒さによる凍死、ノミやシラミが媒介となる赤痢やコレラといった伝染病にかかるなど、様々な原因が重複していたようです。
祖父は一度、きれいな花畑が見えたそうです。それは、世にいう「あの世」でした。
「あの花畑に行ってたら、俺は死んでた」と祖父は振り返りました。
結局、祖父は花畑に行かず、この世に残ったのです。
平和記念展示資料館の記録によると、生活するなかで、とつぜん隣の仲間が動かなくなっていたり、立っていた状態でバタンと倒れたりすることも多かったそうで。もしかすると、その人たちは、お花畑に向かって歩く選択をしたのかもしれません。またはそれが今世の学びの寿命だったのかもしれません。
木内信夫さんの作品展から祖父の記憶を探してみる
木内さんの作品展の事を知ったのは、NHKで情報発信されていたからです。
木内さんの描くシベリア抑留の様子は、過酷なだけではなく、ソ連の風土で生きる日本の若者たちの青春と経験が盛り込まれていました。
そこで紹介されていたのは、ソ連人とも仲良く情を交わし合っている日本兵の姿でした。
抑留していたのは日本兵だけでなく、ドイツ人やイタリア人もいました。
元ソ連軍司令部の男性の話では、食料不足の環境下で、日本人が与えた黒パンを食べないでボイコットしているという出来事があったらしく。それはきっと日本人の主食がパンではなくお米だからだろうということで、日本人だけ特別にお米を与えたという記録も出てきました。
木内信夫さんのイラストには、パン食を与えられているドイツ人(イタリア人かも)が、とぼけたふりをして日本人の食堂の列に並んでいたら、日本人の配膳係に怒られている光景が描かれていました。
日本人に出されるご飯料理は、ドイツ人やイタリア人の食事より量が多く見えたようです。
木内さんのイラストは、シベリア抑留での生活の様子が、わかりやすく描かれています。
とくに参考になったのはトイレ。
屋外に、大きな穴が掘られていて、そこに丸太を何本も渡して作られていました。
囲いなどはなく、完全に大っぴらな共同トイレ。
話を聞くと、私の祖母の実家でも、昔はそのタイプの便所だったそうです。
平和記念展示資料館の記録によると、丸太に一列にならんで用を足したり便をしたりしていて、一人が終わって移動する際に丸太が揺れるそうで。とても不安定なのだそうです。丸太から落ちれば下は肥溜め。実際に落ちる人もいたそうで。夜中に寝ぼけたまま用を足しに行って誤って落ちてしまい、助けを呼び叫ぶ者もいたそうです。
かなりサバイバルです。
その他にも、ロシア兵には女性もいたとか、ドイツ兵やイタリア兵もいたとか。ロシア人女性と恋仲になった日本兵の若者もいたとか。いろいろと知らないことが、描かれた内容によって明らかになりました。
なぜ木内さんはイラストという手段で。ユーモアを交えて描いたのか。
それは息子さんに向けて描いたからだそうです。
ユーモアに包まれた絵でも、肉体が経験する過酷さや、戦友たちの死の光景も描かれています。
けれど同時に、シベリア(ロシア・ウクライナ)の地で実際に暮らしたことの抒情詩的な光景も描かれ、バランスがよいのです。
ご本人のメッセージで、「シベリア抑留は、無駄ではなかった」と書いてあったのが、また驚きでした。
苦しくつらい想いだけではなく、「それは自分の人生にとって意味のあることだった」と受け止めた、木内さんのポジティヴな思想によって、多くのイラストが描かれました。
ロシア兵は計算が苦手だった
祖父の話に「ロシア兵は計算ができない」というエピソードがありました。
配給のジャガイモを受け取るとき。
「5つまで数えると、わからなくなるから。もっと混乱させようと、わざと間違った数を言い返すと、ソ連兵はますます混乱して、最初から数えなおすが、また5まで数えるとわからなくなる。そうして何回も数えさせている間に、ジャガイモを多く取って、ズボンや靴の中に隠してしまう」ということを、祖父はよくしていたようです。
多めにくすねたジャガイモは、夜に人目を避けて、その頃に目をかけてもらっていたロシア軍司令部の総長の家に持って行きました。ドアを叩くと開いて、暖かい部屋に総長や奥さんや娘さんの姿がある。ロシア語もそこまで流ちょうではなかっただろうから、祖父お得意の、かわいいニコニコ笑顔でも見せたのでしょう。
それで靴の中などに隠していたジャガイモなどを見せると、大変よろこんでくれて、お礼にスープなどを作ってごちそうしてもらっていたそうです。
その頃はソ連全体が食糧不足だったようで、それは司令部の総長の家でも同じことだったようで。貴重なジャガイモを持って来てくれたことに、とても感謝していたようです。
宿舎に戻ると仲間たちは「お腹が空いた」とぼやいていますが、自分はお腹が満たされているにもかかわらず、申し訳なくて、「俺もお腹が空いた」と話を合わせていたそうです。
ロシア兵は計算が苦手という話は、平和記念展示資料館の記録にもあり、木内さんの絵にも描かれていました。祖父が一番、繰り返し話していた内容は、共通のことだったようです。(木内さんの絵では、四列縦隊に苦労するロシアの若い兵士を、ニヤニヤして見ている日本兵の姿でした。)
演劇で役者もやった
祖父は抑留中に、演劇の役者として舞台にも出ていました。
ソ連の抑留生活の中で演劇を立ち上げたのは、俳優の滝口新太郎。
滝口新太郎は、ソ連の社会主義の理念に共感し、ソ連に残留することを選択した日本人。
当時、シベリア抑留の収容所では、日本人をソ連の共産主義の思想に染めるための「赤化教育」が行われていたそうです。
祖父は物覚えがよく、セリフ覚えもよかったので劇団員にされたそうですが。
演劇の内容はおそらく、共産主義の理念を伝えるためのものだったであろうと推測できます。
分厚い台本を渡されて、「これを一晩で暗記するように」とむちゃぶりを言われ、必死になって一晩かけて長いセリフをすべて覚えていたそうです。主役をやったこともあるそうですが、いつもおじいさんの役だったそうです。
滝口新太郎はきびしい人だったと、定かではないけど言ってたような記憶もあります。
演劇人だから、演劇に対して真摯なのかと思って聞いていましたが、そこには、彼なりの思想の表現欲が込められていたのかもしれません。
日本への引揚船に乗る人たちは、新聞や演劇に触れながら、赤化教育に浸ることを余儀なくされました。
帰還後
4年後、シベリアから日本に帰還した祖父の印象は、軍隊生活で、厳しくされたせいで、しっかりした人物になっていました。
郷里にもどって来たとき、祖父の弟が「荷物を持つよ」と言ってくれたのですが、祖父は弟の顔を忘れていて、「いいえ結構です。大丈夫です」と他人行儀なあいさつをしたそうです。
祖父の母は、すでに神社に届け出ていた「死亡届」を撤回しに、いそいで神社に走って行きました。
抑留生活を終えて日本に戻ってからも、シベリアで体を酷使したこともあり、結核をわずらったり、それぞれに与えられている人生の運命に翻弄されることは避けられず。色々と大変なこともあり、日本に戻れたから平安になるとは限らないのが人生ですが。
日本に帰還してからも、抑留中に同じ班だった戦友たちと、戦友会を立ち上げ、定期的に再会していました。お互いの家に遊びに行き、海鮮料理などのごちそうを振舞ったり、30キロの米など豪華なお土産をもらったりして、交流は続いていました。
抑留中、班長だった祖父は、班員の代わりに1人で殴られたり、お腹を空かせている仲間にパンをあげて、自分は一晩何も食べずに耐えたりしていたそうで。「○○さんには、とてもお世話になった」と、みんなが慕ってくれていたのでした。
私が生まれてからも、1年に一度か二度。おじさんたちが家に集まってきて、夜まで楽しく宴会をしていた光景を覚えています。それがシベリア抑留の戦友たちだったということを知ったのは、つい最近のこと。「そういうことだったのか!」と目からうろこです。
家に有り余るくらいにあったお皿と座布団の山。いつしかそれらが活躍する場は途絶え。処分を切り出すも、「それは人がたくさん集まった時に必要だから、絶対に捨てられません」と、いつまでも祖母に断固として処分することを許されなかった食器や座布団は、戦友たちをもてなすための大切な物だったのだと知りました。
私が小学生の時にも、祖父の戦友の住む地域に家族で旅行に行きました。祖父にとっては大切な仲間との再会。小学生で孫の私にとっては、夏休みの家族旅行。
大事な記憶が、孫の私の代で、すっぱ抜けているという事実に、今更ながら唖然とする。
どうして私がこの世にいるのか。先祖や祖父母の人生で、なにがあったのか。それがわかっていない子孫は「おバカ」です。
戦争の記憶が強く掘り起こされている2023年
私の祖父は、シベリア抑留の記憶を文章にも絵にも残さずに、この世を去りました。
木内信夫さんは、97歳まで生きられました。その間、シベリア抑留の記憶を、絵を通して後世に残し伝えていく、という使命があったのだろう。
98歳まで生きた祖父は、どんな使命があったのだろう。
私の知っている祖父は、他者を助け、奉仕する優しい人でした。
ロシアの将校の家に持っていたジャガイモも、純粋に、顔見知りになった人たちの喜ぶ顔が見たくて、していたことだったと。ニュアンスで感じ取ることができます。
ロシアとウクライナの地で、戦争が起きている現実。
NHKで特集されていた、ウクライナの詩人によって、民衆の体験している戦争の中で、言葉がどういう意味を持ったかを集めた『戦争語彙集』の内容を聞いて、考えさせられました。
8月は終戦記念日、原爆の日、日本空港123便の記憶など、多くの戦争や被害にまつわる記憶を思い起こさせる月だということを、情けないことに、今年はじめて、ここまで考えるに至りました。
おわりに
ロシア人だから悪いとか、敵だからとかいう見方ではなく、
木内さんは「人」として、現地で触れ合う人々と体験を共にしていた。
「戦争」ではなく「人」なんだと、視点を変える機会になりました。
木内さんのイラストレーションは、さすがプロ、表現が上手です。
日本兵の丸出しになったお尻が、実際を見るようで、うまいなと感じました。
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