
2025年1月10日。
新橋駅を降りて、カレッタ汐留の中にある劇団四季「海」劇場に行きました。
カレッタ汐留は日テレの建物の横にありました。というか日テレの建物が新橋駅近くにあることを知りました。あと新橋駅にはゆりかもめも。
羽田空港に行って飛行機で旅行行きたい…と雑念が生まれつつも、この日はミュージカル観劇。
久しぶりに劇団四季のミュージカル観劇
2014年、夏頃。ディズニーシーにファンタジースプリングスとかいうエリアができたそうで。その宣伝のためか、ディズニーランドの特集番組がテレビで連日のように流れていて。
それを観ていた母と私は、見事その宣伝効果に洗脳されて。アナ雪のアトラクションに乗ってみたいという気持ちになりました。
だったらいっそのこと、劇団四季のミュージカルでアナ雪を観た方が、ストーリーが全部込みだし、お得なのではと思って。久々に四季のミュージカルのチケットを購入。購入したのは、後ろのC席の真ん中エリア。
個人的に、残念な出来だったアナ雪

数か月前に、春劇場で『アナ雪』を観劇しましたが、個人的に残念な感じでした。
アナ雪の個人的に残念だったところ
- 生オケ関係で音響うんたらのせいなのか、どの役者もどの場面も、セリフが滑って何を言っているのかわからない。
- 初めて見る人には、前置きの説明など頭に入って来ないので、「雪の女王」が誰なのかわからずに一幕が終わる(一緒に観に行った私の母)。
- 氷の宮殿の全貌を、舞台背景として見たかったのに、出てきたのは氷の宮殿の内装だけ。
- エルサの有名なソロパートは立ったまま歌うので、まるで歌謡ショーを観ているようで、地味に残念だった。
浅利慶太がいなくなったから質が下がったとしか思えない…と、浅利慶太を理由に不満を漏らしていました。アナ雪ファンからしたら、ブーイングでしょうが。
アナ雪は、過去のディズニー映画とは違い、SNS拡散のコマーシャル効果によって世界中に広まったように思っています。当時、いきなりアナ雪を真似て歌う一般人の動画が流行した記憶が。
ミュージカルに、なんでしたんだろう?しかもこんなミュージカルに…と、モヤモヤ。
この構成では、せっかくの俳優さんたちの力も発揮できていないと、個人的に感じました。
あえて印象に残ったキャラクターと言われれば、雪だるま。滑舌が一番よかった印象で、笑いも誘ってくれたから。私が観た時は、男性が演じていました。何言ってるのか聞き取れなくてイライラするなか、癒しの瞬間を与えてくれた唯一のキャラクター。
そう考えると…全体的に笑いの要素もえらく少なかった印象。
雪だるまは、後半でアナを助けるために溶けてしまう危機が訪れ、そのシーンは劇中で唯一、涙腺が緩みました。
久々に見た劇団四季のミュージカルは、音響が爆音で、まるでヘビメタのフェスみたいでした(行ったことないけど)。
東京文化会館の音響は、独特な壁の構造によって、音が美しく耳に届く造りだったので、それと比べると、ミュージカルホールだから音響は大切なはずなのに、なんか変な印象。
アナ雪は、王子様が悪者で、氷屋の男とも結ばれないまま終わり。話的にも雑な印象。
エルサのやさしく凛としたお姉さんぶりは素敵だなと思いました。エルサが唯一まともな性格に思える。これは映画や劇を観てみないと、けばい水色のドレス姿の絵だけではわからない…。
私たち(私と母)は、もう劇団四季とは感性が合わないんだ、という結論に。でもすでにアラジンのチケットも購入してしまっていて、後戻りできない状態に。
アラジンの感想
劇場ホールにある、本日の出演者名ボード。観劇が終わってから撮りました。

幕に注目
アナ雪の幕の個人的に残念な所
アナ雪の幕。個人的にはかなり低評価です。あの幕を作った人、そしてそれにOKを出した人のセンスがわからない…。なぜあんな太い字で題名を書いてしまったの…?北欧の風景だけでいいんだけど…。
それから、オーロラが流れる方向は、あれがベストだったのか?というのも、私だけなのかもしれないけれど、あれはオーロラに見えない。
幕を縁取る黄色の枠が、緞帳(どんちょう)の雰囲気や色味とは、ちぐはぐな印象に思えて違和感。
アラジンは幕の演出が魅力的

対してアラジンの幕は、品があって良いです、というか普通の幕として成立していて、受け入れることができます。
この赤い幕、開幕の音楽が鳴り始めると、鮮やかな赤に変色する。それがまるで、魔法のエネルギーを浴びて生命を与えられたように感じられて、たまらない。幕が上がる時に下の方がヒラヒラ揺れるのも、生の舞台の醍醐味で心震えました。
幕は、赤からランプの精ジーニーカラーのような紫に変わってゆき開幕。物語の中に入るタイミングを作ってくれています。
アナ雪の印象が低評価だっただけに、もうこの、音楽と幕の醸し出す生の舞台の感覚を肌で感じられただけで満足だと思いました。
舞台装置・舞台背景
幕が上がると砂漠の舞台背景。ベニヤっぽい感じ。
後ろのC席だったので、舞台と役者さんを完全に俯瞰した状態で観ることになります。
舞台背景や舞台装置は、はじめはシンプルに、その後は休む間もなくどんどん華麗にエスカレートしていき、この舞台装置と背景、そしてアラビア風の黄金や星のキラキラの輝きが、これでもかというくらい溢れていて、それを見られただけでも、チケット料金以上の作品を見られて満足という気分になりました。
ジーニー
この日、ランプの魔人ジーニーを演じていたのは瀧山さんという、初めの頃から演じていらっしゃる方だそうで。元祖ジーニーが観られたということでラッキー。
瀧山さんは元オペラ歌手だそうで、声楽出の母曰く、歌の途中でオペラの発声になったから、どうして?と思ったら案の定、声楽家出身でした。
それにしても劇団四季の音響って、昔からあんなに爆音だった?
瀧山さんの声量が大きいだけに、音がうるさすぎ。
そこにジーニー独特の翻った声などを入れるから、ますますカオス。
うるさいんだけど、耐えられる。
そんな状態で、羽目を外したジーニーの歌とセリフを最後まで聴いていたおかげか、観終わった時には、私自身が知らない間に作り上げた固定観念という名の「枠」が外れていました。驚き。
つまらなく形成した、「当たり前」と思っていた日常の枠が外れたという感覚を得られて。観てよかったと思えました。
登場人物紹介が入る
はじめに登場人物たちが出てきて、ジーニーがみんなのことを自己紹介してくれます。
言葉の説明だけでなく、実際に目で見て理解しておく流れにしてあるのは、子供向けのようでいて、実は大切なポイントだなと思いました。
群舞
一幕はじめの群舞は、なんか乱れていて締まりがない感じでしたが、舞台装置と同じく、進めば進むほど上手くなり、ダンスのジャンルも多様性があり、引き込まれて行きました。
主役のアラジン
C席から見ると、白地がベースの衣装を着たアラジンは、他の人たちの中にいると見分けづらい。
赤いベストを着ていると思うのですが、遠目で観ると、肌に同化するような色味に見えて、主人公なのに結構地味な印象。
あえて期待はせずに、主人公アラジンの青年らしさと四季特有の滑舌と歌の丁寧さに身をゆだねようと思っていたら、一幕のアラジンのソロ「自慢の息子」での歌唱力が、個人的に最高でした。ロングトーンは途中からさらに深みと音量を広げてくれて響きもあるという、この人も声楽出?
「当たり回だ!」と思わず心の中で叫んでみる。
そしてさらにうれしいことに、踊りも上手い。指の先まで神経が行き届き、繊細な機微を上手に表現していて、一幕終わりの後ろ向きのポーズでは、体全体が舞台全体からどうやって見えるかがわかっているからこそできる、小さな動きでポーズをさらに美しく、感動的に見せてくれる。
やっぱり主役が上手くなきゃねーと、心の中に本音が芽生える。
それで観劇終わりに出演者ボードを撮影したのですが。
今回アラジンを演じていたのは、一和洋輔さん。
上手い人には興味が沸く。どんなお顔をされているんだろうと思い、後にネットで検索してお写真を見てみたら、かっこよすぎで驚きました。
わかるところだけでも、声良し歌良し踊り良しで、さらに顔良しとは。天は2物以上を与えるものなんだなぁ…。きっと前世でそうとう徳を積んでいらっしゃるのだろう。
あまりに完璧すぎて、ファンになりました。ファンレターを書いたり、追っかけしちゃおうかなと本気で思いました。
年齢はお若いのかと思ったら、30代後半で。だから深みのある演技ができるんだなと納得。
その他の出演者さん
ジャスミン姫は、ディズニーアニメのような声でした。私的には、歌よりも踊りが上手い方だなと思いました。
王室組の衣装は、美しいキラキラがきらめいて、目の保養になります。
悪者ジャファーは、穏やかな良いおじさんの声で、安心して見ることができました。むしろ側近のイアーゴが危険ワードをたくさん言い放つという。このご時世に、その手のワードは連発しない方が良いのでは…と個人的に緊張感。かなり危険な存在に思えましたが、イアーゴの歌声がまた低く響くいい声で。この人も声楽出?
悪者二人のデュエットは、上手くて耳に心地よかったです。
アラジンの三人の友達。赤い服の人はハードボイルド系の声で、違う演目で悪者役やってそうと思ったら、ファンの間では人気の俳優さんのようで。しかもジーニーも演じられていると後で知りました。
青い服の人は、母的には、3人の歌に彼が入ると歌が引き締まるから気に入ったとのこと。テナーのような高温パートを歌っているからかな。
緑の服の人は癒し系。
お辞儀の文化
洞窟の中で、はっちゃけるジーニーに対してアラジンが丁寧にお辞儀をしたシーンがあって。
それに対してジーニーも丁寧にお辞儀を返すという。
双方のお辞儀に安心感を抱いたのは、日本人特有の感性だなと思いました。
お辞儀のシーンで笑いが起きるのは、そこに流れる独特の「間」と、お辞儀の行為に含まれる、見えないけれど存在している内面の感情だと思うのですが。
外国人は絶対に出来ない技だなと思ったし。外国人にも、この行為の中に存在する、見えない感覚を理解することはできないのではないかと…そんなこと思ったら、「お辞儀」の文化って侮れないと思いました。
空飛ぶ絨毯
この日は絨毯、しっかり長い間、夜空を飛んでくれました。
それだけでも感謝。なにしろネット検索すると、機械の不具合で絨毯が飛ばない回もあったらしい。
C席から見ると、絨毯は、大量の星が瞬く真黒い夜空(宇宙?)と同化して、姿が見えませんでした。
絨毯に乗って飛びながら二人が歌うシーンに注目すべきなのですが、”絨毯が見えない” ということに意識がいってしまい、歌に集中できなくて残念だったと、あとになって気づく。
ただ、飛んでいる最中に、位置や姿勢を変えたりして、ぐらつかないかと、見ていて少し緊張した場面も。
絨毯は横幅が太いけれど。それを「房」を付けることで上手にカモフラージュしていました。
絨毯は、最後のカーテンコールで、もう一回お目見え。明るい所だと、ブルーの姿が見えて満足でした。
アラン・メンケンの音楽
アラジンの音楽を作ったのは、アラン・メンケンという作曲家。
アラジンの他に、『美女と野獣』や『リトルマーメード』、その他多くのディズニー映画の音楽も彼が作ったのだそう。
それぞれの作品の音楽は、人々が生活の中で生み出した、生きたリズムを取り入れているんですね。
『アラジン』の「フレンド・ライク・ミー」ではジャズ、『リトルマーメイド』の「アンダー・ザ・シー」はカリプソ、『ヘラクレス』の進行役の女神たちが歌うゴスペルなど、私たち人間が遺伝子レベルで知っているリズムを上手く取り入れて作っているから、あんなに心地よいのですね。
参考サイト↓
私、ジャズ好き。
ジャズは心浮き立つリズムだから、国境を越えて誰もが好きだと思うから、アラジンの「フレンド・ライク・ミー」も、遺伝子レベルで文句なしに受け入れることができるリズムだから心地よい。
体格の良い黒人さんがジャズを歌う様子が、ジーニーの役どころとマッチする。すごいなメンケン。
思いを伝える歌とセリフとストーリー
アラン・メンケンの音楽と歌詞は、しっかりした意図を表現できていてすごい。
「自慢の息子」では、盗みで生活をしているアラジンが、「母のために、まっとうな人間になると決めた」という気持ちを歌っています。
これは…擦れてる若者時代を送りつつも、これからは親に恥ずかしくない人間になろうという心境の変化のタイミングにいて、一歩踏み出そうと思っている人が聴いたらドンピシャに心に響くだろうな、という憶測が…。
主要な登場人物の心境と、メンケンの音楽がマッチして、観ている人の心にダイレクトに入り込んでいくと実感。これも「時間の芸術」である生の音楽だから味わえる醍醐味。
2011年に、お勤めを止めて、絵に本腰を入れざるを得ない状況下にいる時期に、劇団四季の『美女と野獣』を観に行きました。
その時も、ステージは遠く小さく。登場人物の顔も見えなかった記憶がありますが。
一幕でベルとお父さんが歌うシーンで、やたら「自分は変わり者だ」というワードが連発して(「二人で」という題名らしい)。その時期の自分の隠された心境が容易にめくり上げられて、二人に仲間意識を感じてボロ泣きしました。隣に座っていた他人が、ドン引きするのではないかと気になりながらも、浄化の機会を与えてもらっているなぁと、不思議な経験をしたことがあります。
なにかにぶち当たったり、なにかに悩んで進めなかったり、新しく一歩踏み出そうとするけど、まだ航海前の状態にいる人など、歌やミュージカルを観て救われる人は多い。
歌詞と共に、その音楽の中に浸り込むと、心がぐっと揺さぶれる。心が震えれば、浄化がはじまっているサイン。
「自慢の息子」のメロディは、心に染みて、しんみり感が個人的に心地よい。
ちなみに動画検索して、韓国の男の子が韓国語で歌っているバージョンもありました。
韓国語だから「オンマ」と言ってる。
アラン・メンケンさんのピアノで歌う英語バージョンもありました。↓
歌う人や言語が異なると、印象も千差万別。
心が変化するのが、生の舞台の醍醐味
劇団四季のステージは、個人的にわりと狭い印象に思えたのですが。その中で舞台装置・舞台背景が、しっかり・ぎっしり詰め込まれていて、群舞を交えてタップダンスやその他、様々な構成のダンスを見ることができて満足。
劇団四季の役者さんたちの歌唱力と演技力も、アナ雪の失敗を見事、払拭してくれました。
ミュージカルは「総合芸術」。
だから、歌、踊り、ストーリー、舞台美術などの要素が総合的に生きていないと、なんか不完全な印象になるんだなと実感。
私も小学生の頃からバレエをやって、20代はナレーションとボイトレと歌と、演劇も少しかじったなと、昔の記憶を思い出しました。
芸術に触れないようにしていた期間も、ウクレレ習ったり、ひそかに弾き語りしたりもしていた時期もあったけれど。
今回、ジーニーの羽目を外した歌と演技、一和さんの美しい表現に触れて、芸術に浸っていた頃の自分の気持ちを再度味わうことができました。
スピーディーに移り変わっていく舞台装置のように、自分を取り巻く背景が変化していっても平気でいられることは、自由だ。
背景が変化することに「怖れ」を抱くのは妄想で。ある一定の背景に執着して離れようとしないのは、囚われている証拠。
「固定された世界」に囚われていては危険だと、気づかせていただいた。自由になろう。
現実は存在しない、と。
型が外れたことで感じることができた感覚。
「型」は存在しない。
私たちが「日常」として形成した型・枠は、存在しない「まぼろし」なのですね。
囚われているから、しんどい。
枠が外れて、型から自由になっている状況の中、できるだけそこに意識を置いて、今後、どうやって進化、変化していこうかと、頭を使うことなく、じっくり感じ取りたくて。劇の余韻に浸っています。
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